戦いの終わり
だが、出羽合戦開始直後の9月15日、関ヶ原では東軍大勝利で決着がついていた。その報せが両陣営に届いたのは9月29日ごろとされる。上方の大勢が決着した以上、局地戦は無意味となる。
10月1日、兼続は全軍退却を命じる。
ここぞとばかり義光は、みずから陣頭に立って全軍を指揮し、富神山周辺は激烈な追撃戦の修羅場となった。
この戦いで義光の兜に敵弾が命中、側近の家臣が銃弾に貫かれて即死した。戦死者は、上杉方1580、最上方623と、諸記録はほぼ一致して揚げている。伊達から派遣された援軍も最上勢と協力して戦い、湯野目民部をはじめ30余人が戦死したとされる。
兼続の戦いぶりに、義光は「さすが直江、見事。謙信以来の武勇の伝統が今も残っている」と称賛を惜しまなかった。
こうして、両軍が死闘を繰り広げた長谷堂の戦いは終わりを告げる。
→「須川」周辺のムービーはこちら
→「富神山」周辺のムービーはこちら
2009.04.25:[戦国観光やまがた情報局(test)]
「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
このサイトは2009大河ドラマ「天地人」の放送を記念して山形市が制作し..
観光情報の検索
人気の記事ランキング
※過去1週間のランキングです。
Contents 41,949pages
Today 2,541pv
Yesterday 18,944pv
Access 46,137,242pv