合戦のあとで
徳川家康が後顧の憂いなく、関ヶ原合戦に全力を傾注できたのは、最上義光が上杉を牽制したからだと言われる。その点で、半月もの長期間にわたって上杉軍を釘づけにした「慶長出羽合戦」は、大きな意味があったといえるだろう。
合戦後の論功において、義光は33万石という異例の加増を受け、置賜を除く山形県全部と秋田県南部を含む57万石の大大名になった。
合戦後の最上時代は、新たな山形の夜明けであった。都市山形はここからスタートした。平和を謳歌する領内は、産業、経済、文化、各面にわたって大きな飛躍を遂げた。「最上百万石」と称される「山形の黄金時代」がここに現出したのである。
長谷堂城を守り抜いた志村光安は、酒田3万石の城主に栄転し、港町酒田の建設と繁栄のために力を尽くした。
上杉氏は米沢30万石に減封されるが、直江兼続は藩政を確立し、米沢の街づくりに大きな功績を残した。
長谷堂地内、国道458号線のかたわらにある「主水塚」は、敵将を惜しみつつ、敵味方の隔てなく手厚く弔った山形人の心を、今も語り続けている。
(片桐繁雄)
「直江兼続VS最上義光」〜決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦
このサイトは2009大河ドラマ「天地人」の放送を記念して山形市が制作し..
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