最上家臣余録 【志村光安 (2)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (2)】
前述したように、十六世紀中盤から慶長六年に酒田へ移るまでの動向を追う場合、軍記物史料に頼らざるを得ない状況にある。信頼性に制限のある史料群ではあるが、可能な限り、その動向を検討したい。まず検討したいのが、光安の名乗った官途名である。多くの軍記物史料においては、志村光安と思われる人物が「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」という二つの官途名を使用している。この二つの名前が真に同一人物の名であるのかをまず確認せねばならないだろう。
時期は下るが、書状史料における光安の官途名はどうなっているだろうか。慶長期以降の書状史料を見ると、
御書中披見、祝着之至候、・・・(中略)・・・恐惶謹言
志伊
極月八日 光安
大津助丞様
御報 (注2)
とあり、志村光安が伊豆守の官職名を用いていたのは確かなようである。また、他の史料を見る限り、光安の官職名は一貫して「伊豆守」と記されている。しかしながら、光安が「九郎兵衛」と名乗っている書状史料は一通も見当たらない。それでは、軍記物史料での記述はどうであろうか。目に付くのは、『最上記』と『羽源記』の記載内容である。
『最上記』城取十郎討捕給事
去程に其頃出羽国谷地と申所に、(中略) 此も義光公聞召、
志村九郎兵衛後に号志村伊豆守使者として、最上の家の系図并白の
大鷹一居・御馬一疋、月山打長身の鑓十丁相揃進上有りけるに、…
(注3)
『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事
其頃最上谷地と申す所に、城取十郎武任と申屋形あり、(中略)
家の子に志村九郎兵衛と申者、後は伊豆守とて酒田の城主となりしを
使者として、…(注4)
とあり、この二つの軍記物史料においては「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物と扱って物語を記している。また、他の書軍記物史料の記述とこの二つの軍記物史料の「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」の登場場面・活動内容を見比べてみる限り、そのほとんどが合致している。よって、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一の人物「志村光安」としてとらえてよいだろう。
ただし、注意しなければならないのは、光安の嫡子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたということで、これは書状史料に明記されているから確かな事である。
殿様御遠行ニ付而、態飛脚差越候事、令祝着候、
即頓而下候時可申理間、不具候、恐々謹言、
志九郎兵衛
ニ月六日 光惟
永田勘十郎様 (注5)
同様に、『奥羽永慶軍記』においても、
『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事
羽陽田河・飽海ノ両郡ヲ、前代ヨリ庄内ト号ス、
(中略、以下庄内の支配者が列挙される)
志駄修理亮 慶長五年迄
志村伊豆守 最上ノ郎党、同十九年迄
同 九郎兵衛 同元和八年迄(注6)
と、志村光惟が九郎兵衛を名乗っていた事を記している。ただし、光惟は慶長十九(1614)年に一栗兵部の手によって襲殺されており、元和八(1622)年まで城主であったとしている記事内容の信頼性は低い。ともあれ、軍記物史料における「志村九郎兵衛」と「志村伊豆守」は同一人物とみなしてよく、またその子光惟も「九郎兵衛」を名乗っていたことは確かである。志村光安が史実の上で「九郎兵衛」を名乗っていたかどうか、書状史料の上からは明らかにする事はできないが、親子で官途名を継承する事例はありふれたことで、光安も、伊豆守を名乗る以前は「九郎兵衛」を名乗っていた可能性が高い。
<続>
(注2) 「大津文書」十二月八日付志村光安書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注3) 『最上記』城取十郎討捕給事(『同上』)
(注4) 『羽源記』巻之第二 城取十郎討捕謀略之事(『同上』)
(注5) 「永田文書」二月六日付志村光惟書状(『同上』)
(注6) 『奥羽永慶軍記』庄内城主数代替ル事、付御静謐事(『同上』)
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