最上家臣余録 【志村光安 (5)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜
【志村光安 (5)】
その後の庄内は、各々の城主がその支配地域を独立的に管理する状況ではなく、各城の家老レベルで連携を取り合い、その統治を進めていった形跡が見られる。例えば、志村氏の家老進藤但馬と大山城主下対馬守の家老原美濃守が連署し、年貢の覚書を狩川城主北舘大学へ通達している書状(注16)や、亀ヶ崎より欠落した輩を召捕った事を賞する内容の原美濃書状・進藤但馬書状(注17、18、19)がある。「忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候」(注18)「濃州様より貴様へ被仰遣候ヘハ、」(注19)と、一つの懸案に関して連絡を取り合っていたようだ。だが、光安を始めとした大身の城主層が、行政を家老格に全面的に任せていたかというとそうでもないようだ。義光に命じられ、光安が飛島および沿岸諸村の雑税を徴収しているし(注20)、また藤島城主新関因幡が酒田商人永田勘十郎に米の売却を依頼したような内容の書状も見られる(注21)。これら家老格の家臣等と志村との関わりは次項にて若干の考察を試みたい。
このように、庄内の城主達は、互いに連携を取り合い庄内の支配を行っていった。光安は、懸案によっては庄内の領主達に留まらず由利の本城氏とも連絡をとって対処しているようである。慶長十四(1609)年六月に発生した笹子山落事件(注22)においては、事件の発生を本城氏から通報された進藤但馬が、それを「即伊豆ニ申きかせ」ており、また山形へ問い合わせた結果、類似事件があった事、また事件への指示を本城(赤尾津)満茂に返答している(注23)。また事態が進展した八月には、光安が満茂に対し佐竹からの連絡があったこと、それを「殿様へそれかしより書状さし上」と山形へ伝達したことを報じている(注24)。笹子山落事件は庄内・由利・秋田を巻き込む大事件へと発展したのであり、佐竹・本城・山形の間に立ち、情報の即時伝達を仲立ちした光安の動静は、重要度の高いものであったと位置付ける事ができる。
前述したように、この笹子山落事件から二年後の慶長十六年、光安は没しているようである。その後の亀ヶ崎城主には嫡子志村九郎兵衛光惟が就いたが、慶長十九(1614)年一栗兵部の手にかかって家老進藤但馬共々殺されており、志村の血は途絶えてしまったようで、その後亀ヶ崎は蔵入地となったようだ(注25)。
以上、義光の腹心として早期から付き従った志村光安の動向を検討した。史料的限界もあり、制約が多い中での考証であった為、詳細な動向が見えなかったのは残念である。しかし、軍記物史料の記述や動向を示す数少ない書状史料にある程度の傾向は見えており、この考証を踏まえた上で次項の考察を進めたい。
<続>
(注16) 「狩川八幡神社文書」慶長十七年十一月二十七日付進藤但馬他連署書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注17) 「鶏肋編 所収文書」四月二十二日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注18) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注19) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付進藤但馬書状(『同上』)
(注20) 「永田文書」慶長八年十二月十三日付志村伊豆守光安請取状(『同上』)など
(注21) 「同上」十一月五日付新関因幡守久正書状(『同上』)
(注22) 「笹子山落事件」に関しては、長谷川誠一「慶長・元和期における出羽国の社会状況」
(『「東北」の成立と展開―近世・近現代の地域形成と社会―』岩田書院 2002)に詳しい。
(注23) 「秋田藩家蔵文書」六月二十五日付進藤但馬書状
(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注24) 「同上」八月六日付志村伊豆守光安書状(『同上』)
(注25) 「伊達家文書」最上氏収封諸覚書(『同上』)
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