2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 1
平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。
長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。
宮公園の大正3年と昭和9年
大正3年の地図
宮公園は明治40年の創始といわれる。現在の「あやめ公園高台」を宮公園といい、明治43年には、金田勝見が高台下に5畝のあやめを植え、茶店を出し、現在の「あやめ公園」創始となった。あやめ公園となったのは、大正3年。長井町の運営になってからだが、公園いうにはまだまだ。宮公園東の道路を北上すると、致芳成田に通じる野川橋が架かる。
宮公園の南に「偕楽館」があるが、長井で一番古い娯楽施設。明治34年の創設で花道・桟敷席・枡席を備え、舞台は回り舞台であった。大正3年に手直ししたが大正6年、松が池公園に「演芸館」ができると衰退し、大正8年ごろ天童の業者に買い取られ姿を消した。
明治41年の宮公園。
高台下にあやめが植えら、公園化していく
昭和9年の地図
あやめ公園が拡大している。道路は変わらないが、大きく変わったのが長井線の開通。大正3年は長井駅までしか線路はなかった。
昭和5年、山形新聞社主催の各種人気投票で。あやめ公園が「名所県一」に輝いた。同じ年、ボート池を掘り、中央噴水をつくり一大名所となった。10年ほどで大きく変貌した。
北から見たあやめ公園。公園のスタイルを確立した。
偕楽館が姿を消したあと、民間「北斗会」が高台南に「あやめ会館」をつくる。建坪は96坪、名勝も公募決定した。1階は土間で売店、16区画。2階は大広間だった。入口が見えるが、道路に面していた。昭和18年までで、その後建物は東京電器に売買する。
昭和9年の町勢要覧に掲載されたあやめ会館。右側が高台に面する。
昭和8年、高台下に民間のグリーン支店が建つ。1階がカフェ、2階と3階は和の座敷と広間。入口は手前側の角。
読みもの長井物語
(一財) 置賜地域地場産業振興センター
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