豊川炭鉱馬車鉄道という幻 〜米沢に鉄道馬車が走っていた〜 第十二回
◎小松より米沢までのルートとその変更
明治31年2月27日の米澤新聞に当初予定のルートが出ているので見てみよう。
●馬車鉄道と窪田村
いまだ敷設に至らざるつとに世人の渇望しつつある小松米沢間馬車鉄道は元第百二十五銀行支配人たりし石坂祐吉氏新たに入社せらし以来着々その歩武を進めつつあるとなるが、該道は小松町より中街道を経て当市停車場に至るものにて、公共の利益を増進すると莫大なる事業なれば、沿道各町村にて相当の補助を為すべしと主張する者あり。かくの如く公私の熱望するところの事業なれば、各々我が町村を経過せしめんと欲するは自然の結果なるべきは勿論、窪田村においてもこれを延長せしめ六郷村より藤泉、沖を経て窪田村に達する直線を引かんとのことにて同村有志者は夫々相談中なるよし。果たしてしからんには同村の享受すべき利益は実に莫大なるべし。一朝汽車貫通の暁に至らば同村は米沢、糠の目両停車場の間に介在してひとり不便を感するとなるべければ、同村より輸入する貨物米穀二万俵、酒三千駄を下らざるべきをこの鉄道をもって運搬に供すれば半額の賃金をもって支弁せらるべく、また往復の人もこれによって大なる利益を得るべし。加うるに同地方は薪炭に欠乏するところなれば豊川炭鉱会社の石炭をもって薪炭に代えたらんには、これまた些少の利益にあらざるべし。同会社がこの延長に要する経費は少なからざるべしといえども、この貨物を運搬しまた往来の人を乗車せしめれば、会社が得べき利益も決して鮮少ならざるべく、相互の利益かくのごとくなれば余輩は同会社が同地に延長せられんと欲するものなり。
とある。しかし4月19日の米沢新聞には次のようにルートの変更が発表された。
●馬車鉄道の変更談(六郷村 大幸福)
小松町および米沢市有力者の発起により四方有志の賛成多くその歩を進めつつある小松米沢間の豊川炭鉱馬車鉄道は六郷村より東折して窪田村に回さんとし、同村の有力者が運動しつつあることは過日の本紙上に記載したりしが、その後なお六郷村の有力者久坂部善弥氏のごときは、交通の便を開くは地方幸福増進の一大要務なれば該鉄道を窪田に回し新たに一つの道路を開鑿する。これ実に闔村の一大幸福なりとて率先同会社の発起人となり、なお同村の有力家、遠藤、加藤、森谷その他諸氏の賛成を得て同村のために大いに尽力せらるるよしなり。同会社においても過日の本紙上に掲載したりし如く馬車鉄道米沢より赤湯に延長するの計画なれば、窪田米沢小松間の道路をして窪田に出でしめば、窪田より直ぐに赤湯に延長せしむるの便あり。ひとり同地の利益あるのみならず会社の利益また大なればいよいよ六郷より東折して窪田に迂回することに決定し六郷窪田間の道路を新鑿し、道幅を広め橋梁を改築し往来も便をも謀らんとの計画なりという。地方のためには実に喜ぶべきことなり。しかしてこの線路迂回のためにことに意外の幸福を得るものは六郷村ならんか。同村はけだし鬼面川貫流して時にあるいは濁浪氾濫橋梁を焼失し、各字間の交通を遮断し隣保相救い近村急を告げるを得ざらしむあり。しかるを鉄道線路の窪田に通づるあらば鬼面川には堅牢なる橋梁を架設し、往来を便にするのみならず、いかなる洪水の氾濫するあるも流失の憂いなからしめ且つ、馬車鉄道の便によって数時間に小松、米沢、赤湯等に出づるを得べく、交通の便を開き殖産を発達せしめ、人智を開発せしめるを得ん。同村の幸福思うべきなり。
当初は小松町から中郡に出て中街道を南下、六郷に入り六郷橋を渡り塩井町、徳正寺町(現在の徳町)、信夫町で左折、堀立川を渡り座頭町、粡町辻西から粡町を右折、立町に入り現在のカフェ・ラボラトリーを左折、川井小路、桶屋町を通り現在の竹田餅屋から右折堤防に出て、まだ住の江橋は架設していないので、相生橋を渡り米沢駅に出るルートだったのだと思う。
そして2月27日の記事によれば六郷村より藤泉、沖を経て窪田村に支線を通す計画のようだ。酒三千駄は浜田酒造だろうか。
その次の4月19日になると赤湯ルートが浮上してきて六郷村窪田村間が支線ではなく本線になると思われる。つまり小松から中街道を経て途中の六郷村から東折し鬼面川を渡り窪田村に出て、その後国道13号線上、中田、芦付、北町、土橋町、長町、銅屋町を経て現在の登起波牛肉店角で左折し当初の計画のルート繋がるということだ。この時点で計画から十ヶ月ほどで何となくルートがまとまった。
珈琲豆屋です!
米沢市在住。コーヒー豆屋を6月28日開店。 炭火焙煎珈琲とうつわ..
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