直江軍 軍旗 『雁』
ロビーにて展示している直江兼続の軍旗(複製)です。
実物は、山形市の最上義光(もがみよしあき)歴史館に所蔵されています。
太閤秀吉がなくなって間もない1600年、上杉に逆心有りと謀反を疑う徳川家康。
ありもしない疑いをかけられ、一戦交えることも辞さないと上杉家。
上杉討伐軍を繰り出した徳川家康に対し、白河で待ち受ける上杉軍。
徳川軍が、小山に差し掛かったとき、家康の耳に上方で石田三成が挙兵したという知らせが入ります。
上杉との戦を避け、一路関西へ向かう徳川軍。
そして、石田勢と徳川勢による天下分け目の関が原の合戦が始まります。
目の前で戦う相手を失った上杉軍は、徳川追撃を進言する兼続に対し、景勝は、最上氏討伐を指示します。
最上氏は、徳川家康の東軍に与していました。
さらに、当時上杉の領土だった庄内地方は、最上氏の持つ最上・村山地方により分断されていましたが、最上氏の領土を手に入れれば置賜地方から連続した広大な領土にすることができるからです。
東北の関が原と呼ばれるこの合戦で、当初は上杉軍が快進撃を治めます。
直江兼続は上山方面や庄内方面から同時に最上領内に侵攻を開始し、自ら率いる本隊は荒砥から白鷹山の北麓、江口五兵衛光清(道連)が守る畑谷城を目指します。
九月十三日、畑谷城は落城し、江口光清は自刃しました。
兼続率いる上杉本隊は、菅沢山に本陣を置き、長谷堂城を包囲しました。
山形城の最上義光は援軍を出し、義光の義理の甥である仙台の伊達政宗からの援軍も得て上杉軍と対峙しました。
上杉軍の猛攻にも関わらず、最上軍の名将、長谷堂城主志村伊豆守光安は巧みに城を守りました。
上杉軍が苦戦する最中、関ヶ原で西軍敗北の報が届きます。
上方での戦が長引くという兼続の予想に反し、関が原の合戦はたった1日で決着してしまいました。
兼続は、最上領からの撤退を決断します。
十月一日、撤退する上杉軍に最上義光はここぞと追撃を開始します。
しかし、上杉鉄砲隊の逆襲に遭い、自らの兜に銃弾を受けるなど追撃を断念します。
上杉軍は、敵陣からの撤退という難局をどうにか切り抜けることができました。
この旗は、長谷堂城から撤退する兼続軍が残したもので、最上軍が戦利品として持ち帰ったものです。
白地に墨一色で雁(かり)が描かれています。
最上義光歴史館 直江軍軍旗
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